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幸福論

最近はホントに忙しい。
大学の講義をベースにその後の部活動や文フェスの仕事、空いた時間にバイトと。
土日含め、何もない日と言うのがもうここ数ヶ月全くない。
疲労が溜まってるらしく、風邪を引くわ体が常にだるいわと大変な日々です。

しかし、この幸せさを理解できる私はある意味では本当に幸福だと思う。

ちょっと前の私には何もなかった。
常に時間ががら空きで、否定するつもりはないがEB等で時間を潰す日々。
それはそれで相応の楽しみではあった。
いい武器を手に入れたり、戦争に勝ったり防衛したりが幸せだった。
別にEBやゲームを否定するつもりはないが、それしかない私はどれだけ惨めだったのだろう。
空いた時間はEBに費やし、それどころか節度を弁えない私は空いていない時間すらEBに費やしていた。
極論、EBが幸せであり、EBが人生だった。

今の私は違う。
日々やることに追われ、自由な時間は一時の数十分の一ぐらいしかないだろう。
しかし、やるべきことがある。
人と苦労を分かち合い、人とじかに触れ合う。
それが如何に大切な事か、悲しい事に私は人・・・いや、生物として大切な事をすっかり忘れていた。
日々を廃人の如く、その瞬間の楽しみばかり追い求めていた私はやっと目が醒めた。
全ては入部という一つの決断から、やっと真っ当な歯車が廻り始めたといえるだろう。
本人たちには間違っても言わないが、当たり前の環境に迎え入れてくれた天研の人たちには感謝してます。

「普通」。
その言葉は凡庸で、普通の人は好まないだろう。
しかし、ここには書かないが私は普通じゃない世界を一時歩んでいた。
私には、一応大学には入ったものの、もうその「普通な」世界を歩む事は無理だと思っていた。
その世界に戻れた事に感謝を、そしてその世界へ向かいいれてくれた事に感謝を。

最後に、幸福とは物質的に恵まれる事ではない。
真の幸福とは自己の有り方にあるものだ。
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二元論的思考

久々に超真面目な話を書いてみようと思う。
あくまでも私がそう感じてるだけであって、反論や意見の相違が思いっきりあると思う。
しかしそれもまた一興。
間違ってると思うなら文章で捻じ伏せてくれるといいし、正しいと思うなら少しづつ自分に合う形に変えて取り入れてくれるといい。
違う意見を貰う事で私はまた成長し、同じ意見を貰う事で私は自信をもてるのだから。
また、今回は中心に二元論を挙げるが、これは世間一般で言われる意味と多少ずれているかもしれない。
二つに分けて考えるという手法を便宜上、二元論とさせてください。

昔の私は偏った人間だった。
ほぼ全てのことを二元論で見、二元論で判断していた。
損か得か、敵か味方か、善か悪か・・・全てを二つに分けて、そのどちらかを支持するという形で物事を捉えてきた。
その考えは、非常に解り易く、物事を判断するのに非常に簡潔明快だった。
しかし、それは「人間」と言うものの特質をあまりに無視していたことに気づいた。
あれは非常に自分を納得させやすい反面、ある種の思考の放棄でもあった。

野生の動物はシャープだ。
生きる為・子孫を残す為に何をするか、その一点が思考の原点であり、中心である。
しかし、人間は進化と共に余分な事を覚え、あまつさえ余分な事が人間の本質になりつつある・・・いや、なったと言った方がいいか。
これは特に先進国の方が大きくみられると思う。
生きることに余裕があればあるほど、生きる為以外の「余分」の割合が多くなる。
故に群としての「生きること」と言う原点が薄れ、個としての「余分」こそが人の本質となる。
もし野生の動物は思考の平均値を出せたならどの個もあまり平均値からずれていないと思う。
逆に、人間は群としての平均値を出せたとしても、選ぶ個によってずれの大きさが大きく違う結果になるはずだ。
つまり、その多様な人間に対し、二つに分けて判断するというのは解りやすい反面、個の余分を切り捨てる危険な考え方でもあったわけだ。

今の私に二元論に代わる思考の方向性はない。
局面に当たるごとにその対象となる物事の特質や性格を考え、それに対応していくというよく言えば柔軟性のある、悪く言えば凡庸性のない考え方だ。
21年間生きてきて、恐らくは普通の人よりは変わった経験をしてきたが、私にはまだまだ経験が足りていない。
これからもまだまだ精進が必要と言うことです。
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相続 会社設立

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